神様がくれた休日~真話か偽話か空耳か~

フィクションともノンフィクションともつかない一人話を 時には まじない交え思いつくままツラツラと・・

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◆ 雲が立つ(1) ◆

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なんて素敵な場所なのだろう・・
プールのように透き通った海に白い砂・・・
シャリシャリ音を立てて歩くヤドカリご一行様。

ここは沖縄本島、泊港からジェット船で15分足らずの無人島「ナガンヌ島」だ。

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             (写真は2010/7のナガンヌ島)

あまりの美しさに心が躍る。
カラーボールの入った木箱を抱えたまま、しばらく砂浜を歩いていると、
のん気な無人島には不似合いとも言うべきであろうか、数人の自衛官の姿が目に入った。
「不発弾」の処理をしているのだと言う。
私は波打ち際に座り、不発弾処理をする自衛官と青空に薄っすら霞める雲を写す穏やかな海をぼんやりと眺めた。



フランス、マルセイユの地に足を下ろした栄作は、近代的な建造物に整備された歩道、気品漂う街並に目を見張った。
早くから軍人として海軍に勤務していた栄作は、近い将来、必ず始まるそれに備え、視察のために訪れたのだった。

視察を終え、帰国した栄作は、しばしの家族団欒を許され「再度の時」を静かに待っていた。
「戦争が始まるらしい」
「戦争が始まる始まるって、ちっとも始まらない、本当はしないんじゃないか」
巷ではこの話題で持ちきりだ。

実際、栄作もそれがいつかは聞かされていない。
だが、家族にも誰にも言わない、言ってはいけない現実がすぐそこまでやって来ているのだ。

再びその時が来た。

壮行会が開かれた。
いつもとは違う何かを察していたのだろう、妻のイソは黙々と、ただ黙々と沢山の料理を作り、長男、長女、まだ生まれたばかりの次女と共に家族5人で撮影した写真を栄作に差し出した。
気丈な妻・イソの頬に一筋の光が伝った。 
栄作はイソの目をじっと見つめ、(今度は長くかかりそうだ、私は大丈夫だから、留守を頼むよ。)そう心の中で語りかけ、やはり無言で受け取った。
昭和16年11月、栄作33才の秋だった。

 --------つ---づ---き---は----ま---た----あ--と--で-----

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◆ 雲が立つ(2) ◆

Posted by 空耳ロバ on

~~~~~~~~ 雲が立つ(1)のつづき(2)~~~デ ス~~~~~


家族写真を胸に出征した栄作は必ず始まる『その日』に備え、準備に追われていた。

海軍司令部
配属された部隊だ。
栄作はそこで通信の任務に就いていた。
慌しく、だが、綿密に、着々とその時に向け進めていた。
遂にその日が来た。

日本時間 昭和16年12月8日「ニイタカヤマノボレ」

隊員らに緊張が走った。
と同時に司令部全体の動きが一層と慌しくなった。
その中で栄作も無我夢中でモールス信号を受発信した。
爆撃をかわす船内では、机にしがみ付きながら信号を送る、陸地では空爆で土煙が上がり、小屋ごと吹き飛ばされそうな中、信号を受信した。

「どんなことをやっても、どんなに複雑に暗号を作っても直ぐに解読されてしまう。どうやって解読しているのだろうか、アメリカ人はよほど頭がいいのだな。」そんなことを思っていた。
栄作の目の前に空爆が落ちた。
高く、大きく上がる土煙は、低い雲と一体となり、まるで雲が立っているようだ。
そのような中、栄作は漠然と二つ目のある予感が走った。


*旅路とは言えないが、ここで、旅路の安全を願うまじない
旅行で訪れる予定の地図を用意。
その地図上に訪れるはずの道筋をペンでなぞる。
それによって出来た形を20cm四方の紙に縮小した形で青いペンで描き、その周囲を縁で囲む。
その裏に目的地と名前を書き、最後に両手で持ち
「マーキュリー、旅路の安全を与えたまえ」と願う。
そして旅行中、携帯する。


戦時中、このようなことをするはずはないが、
実際、栄作は強運だった。
サイパンには随所に各軍事司令部が配置されていた。
中でも海軍司令部通信部隊が多くを占めていた。
「撤収!」
その命令は常に突然だ。
即座に撤収作業に取り掛かり、通信等の機器をまとめ、痕跡を残さないよう退去しなければならない。
撤収命令が下り、荷物をまとめサイパンを発った翌日、サイパンが襲撃を受けた。

沖縄に移動した栄作は、ある一定以上の者だけが許された下宿制度を選択し、司令部近くの民家から軍事司令部へと通っていた。
ご主人は出征し、母親と娘さんの2人暮らしのご家庭だ。
栄作の他、数人がお世話になっていた。
笑顔で送り出し笑顔で迎えてくれる、ここにいる時だけは栄作も他の隊員も心が和んだ。
沖縄上陸が必至となれば、海軍司令部(現:海軍壕)のある沖縄中南部は激戦が予想された。
栄作は「早めの疎開を」と常に言っていた。
「行って参ります」いつものとおり民家を出た。
「撤収!」再び命令が下され、台湾への移動となった。
その数ヵ月後、実に島民の4人に1人が亡くなったと言われる沖縄激戦となった。
「逃げていてくれ、どうか無事でいてくれ」ただ祈るしか出来ない栄作であった。

-------------------またあとで書きます-------------------

◆ 雲が立つ(3) ◆

Posted by 空耳ロバ on

~~~~~~~~ 雲が立つ(1)(2)のつづき(3)~~~デ ス~~~~~

台湾へ移動後、沖縄大空襲の一報を受けた栄作は沖縄で世話になった下宿の奥さんと娘さんのことが気がかりだった。
北部へ疎開をしてくれただろうか。
それとも疎開をせずに激戦に巻き込まれているのではないか。
安否を気遣いながらも、現実の戦況は既に米国へ大きく傾き、日本国は風前のともし火に、成す術のない栄作であった。

「撤収!」再び命令が下された。
今度はどこへ移動するのかもわからない。
即座に通信機材をまとめ戦火の中、船へと乗り込んだ。
栄作らの部隊に移動命令が下り、出立した翌日の昭和20年5月31日、台湾は大空襲となった。

台湾の大空襲は免れたものの、依然として緩むことのない米軍/陸・海・空からの攻撃をかわしながらの船内は、左右、上下に大きく揺れ、歩くことも立つことすらままならない状況だ。
このような状況下においても平常心で通信を続ける。
たとえその船が追撃され沈むことがあったとしても、命ある限り途切れることなく通信を続ける。
それが栄作ら通信部隊の任務だ。

通信部隊の隊員はそれぞれの筆箱を持っている。
その筆箱の中にはナイフで削り先を尖らせた30本から40本の鉛筆が常に入っている。
交代までの通信の間でその30本から40本の鉛筆の芯の全てがなくなってしまう。
それほどまでに戦況は悪化の一途を辿っていた。
台湾を出航し1ヶ月以上が経過していた。

一方、その頃・・・

神奈川県平塚市。
妻子の住む街だ。
長女、長男、出征時には生まれたばかりだった次女も間もなく4歳になる。
栄作は度々「早く実家へ疎開をするように」と戦地からの手紙にしたためていた。
それには理由があった。
平塚には、海軍火薬廠(現:横浜ゴム製造所)、海軍軍事病院(現:平塚共済病院)、海軍航空廠(現:湘南倉庫等)等の軍事施設がある。
攻撃を受けないはずはないのだ。
栄作が戦地から送ることのできた最後の手紙となった昭和19年5月の手紙にも「早く疎開をするように」と記していた。
だが、栄作の心配を他所に、妻子らはまだ平塚にいた。

平塚にも度々、空襲はあったものの、妻子ら国民の元に届く情報は、実際の戦況とは全く逆の「日本優勢」「日本国勝利」と言うものだった。
この誤報により、イソだけではなく近隣住民の殆どが疎開をしていなかった。
「ここは、子らと共に留守をしっかりと守り抜き、帰還した栄作を自宅で迎える」との気持ちでいたイソであった。
あの日が来るまでは。


-----------------また後ほど-----------------------

◆ 雲が立つ(4) ◆

Posted by 空耳ロバ on

~~~~~~ 雲が立つ(1)(2)(3)のつづき(4)~~~デ ス~~~~~


昭和20年の7月に入ると戦況はますます劣悪なものとなっていた。

同じ神奈川県内の保土ヶ谷では小学校が集団疎開を促し既に大半の子供達は疎開をしていた。
だが、栄作の妻イソは、そんなに危機的な状況であれば、同じ神奈川県内の平塚市でも集団疎開を強制するだろうが、それがないのだし、第一、日本は勝っているのだから。
と「日本軍優勢」「日本軍勝利」の誤報を信じ、疎開をすることもなく、長女・花江、長男・靖、次女・昌江3人の子らと「自宅で栄作の帰還を待つ」とのんびり構えていた。

グゥーングゥーンゴォー・・・
「あぁまた空襲か」
米軍機の音、空襲警報にも随分と慣れ、手際よく電灯の周囲を黒い布で覆い、防空頭巾を被る。
慌てることなどない。

子供達を寝かし、イソも布団に入りウトウトとし始めた頃であっただろうか。

グゥーンゴォー・・・グゥーングゥーン
「こんなに夜遅くに空襲か」
だが、いつものそれとは明らかに違う轟音に、ただならぬ気配を感じた。
寝静まった子供達を起こし、直ぐさま防空頭巾を被せ、既に10歳になっていた長女・花江と7歳の長男・靖の手を引き、間もなく4歳になろう次女・昌江をおぶり、避難用として身の回り品を載せている乳母車を押し、外へ出た。
直後、空襲警報が発令された。
既に辺りは炎に包まれていた。

防空壕へ向かう途中、ふと、イソは気付いた。
「大切な物を忘れた」
この期におよんで命より大切なものなどあろうはずもないが
「先に防空壕へ行っていなさい」
そう花江と靖に告げると、イソは昌江をおぶったまま炎の中へと戻った。

「やだよー!母さま」
「母さま、早く早く、死んじゃうよー」
花江と靖がぎゃあぎゃあ泣き叫び、引き止める声は、逃げ惑う群集にかき消された。

「母さま、母さま」
「あら、花ちゃん、靖君も、早く防空壕へ行きましょう」近所のおばさんだった。
「お母さんは大丈夫、先に行ってましょう」
どのくらいの時間が経ったであろうか、「命より大切なもの」を手に、煤で真っ黒になった顔のイソが戻ってきた。
おぶっていた次女も無事だ。
「母さま、大切なものって・・・これ?」
「これなの?」
花江と靖が代わる代わる触る。
普段は落ち着いているイソもよほど混乱し慌てていたのであろう。
イソが手にしていた物は・・・

・・・蚊帳・・・

麻で織った蚊避けの蚊帳だった。

?????蚊帳????命より大切なもの?????

「なによ、イソちゃん!こんなもの取りに戻ってたの?」
近所のおばさんが言った。
防空壕に笑いがおきた。
緊張に包まれた空気が一瞬、和んだ。
本当にほんの一瞬だった。

「ここは危ないぞー!逃げろー!」

誰かが防空壕の外で叫んだ。
慌てて飛び出し、再び花江と靖は手をつなぎ、イソは昌江をおぶったままその手を引き「大切な蚊帳?」を乳母車に乗せ片方の手でその乳母車を押しながら逃げた。
辺りは一面火の海だった。
井戸で濡らし、蚊帳を被った。
つい先ほどまで笑い物となっていた蚊帳は降りかかる火の粉を避けてくれた。

戦火の中、何処をどう逃げたのかも覚えていない。
一緒だった近所のおばさんとは逸れてしまった。
逃げる途中、砂利道で乳母車が押せなくなった。
身の回り品の入った大事な乳母車だったが、そこに置いたまま逃げた。
花水川付近まで逃げてきた頃、無性に咽喉が渇いた。
人だかりが見えた。
人だかりの先には畑があった。
畑には沢山のきゅうりが生っていた。
火の海の中、逃げてきた人たちは皆、咽喉が渇いていたのだろう。
畑のきゅうりを捥いで食べていた。
頭上を何度も何度も米軍機が旋回する中、花江と靖もきゅうりを食べた。

逃げることに疲れたイソらは、花水川の土手に仰向けに寝そべり空を見ていた。
同じように、何百人もの人達が土手で仰向けに寝そべって空を眺めていた。
再び米軍機B-29が土手に向かってきた。
「あぁ飛行機だ」
逃げる気力すら残っていない。
土手にいる人達は誰一人逃げようとはしていなかった。
「もう駄目だ」イソは眼を瞑った。
靖も目を瞑っていた。
花江は辺りをキョロキョロ見回した。
米軍機B-29がいよいよ近づいてきた。
操縦している米兵の顔が見えた。
米軍機B-29は花水川の上を飛行し旋回した。
そして、先ほどまで皆がきゅうりを捥いで食べていた、今は誰もいない畑に焼夷弾を落とし、過ぎ去った。

照明弾を落とされ、辺りは昼間のように明るい。
操縦している米兵の顔が見える程の至近距離だ。
花水川の土手に横たわっていた何百人もの人々が米兵から見えないはずはないのだ。
攻撃しようと思えば簡単に出来たはずだ。
だが、その米兵は攻撃しなかった。
敢えて、誰もいなくなった畑に落とし、去ったのだった。

空襲が過ぎ去り、朝になった。
土手にいる人たちがそれぞれ自宅のあった方向へ歩き出した。
イソも3人の子供を連れ歩き出した。
逃げる途中、砂利道に阻まれやむなく置いていった乳母車が残っていた。

花江が言った「蚊帳は火の中を逃げる時のために持ってきたんでしょ」
イソは少し笑いながらが答えた。
「違いますよ、あれは慌てただけ。これを取りに帰ったのよ」

イソの手には昭和19年5月、戦地から最後に届けられた手紙に同封されていた栄作の写真が握られていた。

その後は誰も口を利かず、わずか数時間のうちに一面が焼け野原となった街を歩いた。
途中で、逸れてしまった近所のおばさんに会った。
が、やはり無言で歩いた。

軍事病院の倉庫からであろうか。
備蓄の缶詰の破裂音が響いていた。
パーン・パーン。時間を置いては再び、パーン・パーン。
その破裂音は空襲後、2,3日続いていた。

自宅のあった場所からは4キロ先の駅だけが見えたのだった。

平塚大空襲、昭和20年7月16日22時30分空襲警報発令から7月17日0時35分、僅か2時間の出来事だった。

*一夜にして投下された焼夷弾447、716本、1,173トンは八王子空襲に次ぎ、国内2番目の多さとの記録が残っている。



-------------つ---づ---き----次回最終デス-------------

◆ 雲が立つ(5)最終話 ◆

Posted by 空耳ロバ on

~~~ 雲が立つ(1)(2)(3)(4)のつづき(5)最終話~~~デ ス~~~


一夜の、それも僅か2時間あまりで全てを焼失した海軍の街・平塚。

それでもイソは、「地面までは失っていない。栄作の帰還をこの地で待つと。」と、焼失した自宅跡地に小屋を建てようと大空襲の翌日から奔走していた。
その2週間後の昭和20年7月30日、再び平塚は空襲を受け壊滅的な状況となった。
イソは再建築を諦め、栄作の実家に疎開を決意した。

昭和20年7月16日から7月17日にかけての大空襲の一報、7月30日の再空襲の第二報は戦上にいる栄作にも届いた。
が、栄作は、落ち着いていた。
再三再四「早く疎開をするように」と手紙にしたためているのだから、とうに疎開をしているであろうと思っていたからだ。
また、心配をする余裕も実際にはなかった。

昭和20年7月26日
「日本国に対し戦争を終結する機会を与える。」など、
日本国の無条件降伏を記した13箇条からなる「ポツダム宣言」の声明発表がなされていた。
それは、日本国の既に風前のともし火だったその火さへ、完全に消えてしまう日が近いことを示唆するものだった。

そのような中、攻撃の手は緩むどころか、ますます激しくなっていった。
このままでは艦艇が自力操行不能になるのではないかと思う程の勢いであった。
攻撃をかわすために旋廻する。
大きな艦艇が上下左右に激しく揺さぶられるも、魚雷、潜水艦をレーダーで確認しながら通信を続け、攻撃に耐えることしか出来ない日本軍であった。

攻撃が少し静かになる頃を見計らっては進み、また攻撃から逃れるために後退する。
台湾を出立後はこの繰り返しであった。

しかし、艦艇は確実に日本へと向かっていた。

昭和20年8月14日、日本国「ポツダム宣言」受け入れの意思表示。
同年8月15日「ポツダム宣言」受託。

終わった。
4年8ヶ月と7日の戦いが終わった。

玉音放送から流れる敗北を栄作は舞鶴の地で一言一言を噛み締めながら聞いていた。

戦時中に漠然と頭をよぎった「二つの予感」が現実のものとなった。

栄作は再び歩き出した。

雲は空に浮かんでいてこそ、雲なのだ。
空爆で上がる土煙、水柱と共に立つ雲は、尊いもの全てを奪った。
もう二度と雲が立つ日は来るまい。
来てはならない。
昭和20年8月15日、栄作 37歳の夏が過ぎようとしていた。


「泊港行きの船が出まーす!急いでくださーい!船が出まーす!」
その声にハッとした。
まずい!
これに乗らなければ次の目的地である「海軍壕」へ行かれなくなる。
波打際に座っていた私は急いで立ち上がった。
木箱から幾つかのカラーボールがこぼれ落ちた。
慌てて一つ掴むが、幾つかのボールは泳いで行ってしまった。

掴んだ一つのボールを左のポケットに入れ、木箱を抱えて船乗り場へと走る。
途中、しっかりと蓋をしていなかった木箱からボールが落ち、不発弾処理をしている自衛官の足元へ転がった。
「落としましたよ」
ボールを受け取り、右ポケットに閉まった。
なんとか間に合った。
ポケットの中のボールは木箱には戻さない。
左ポケットのボールは海軍壕へ、右ポケットのボールは平和の礎に・・・
船が走り出した。
海に泳いで行ったカラーボール達の行方を確認しようと、島を振り返った。

水面からは数え切れないほどの沢山の蝶が空へと向かい舞い上がっていた。





《後 記》                                       
栄作は76歳の生涯を終えるまで、戦争について多くを語らなかった。
話したがらなかったのだ。
その栄作が口にしたのは、
戦前、視察で訪れたマルセイユは素晴らしいことろだったと言うこと、
沖縄で下宿をしていた時のこと、
シンガポールやサイパン、台湾に行ったこと、
どんなに複雑な暗号も直ぐに解読されてしまうこと、
3,40本の鉛筆が一通信ですべてなくなること、
そして、なんとなく、なんとなく予感がしたこと。
一つは戦争が始まり数ヵ月後「この戦争は負ける」
もう一つは「帰れそうだ」と。

2010年7月14日、ナガンヌ島にて不発弾処理は3時間ほど続いていた。



『海軍壕』
沖縄南部の豊見城市にあります。
山の頂上付近に入り口があり、観光バス等、毎日のように乗り入れています。
最高軍事機密である海軍司令部があったため、その洞窟は全て海軍軍人による手作業で作られました。
洞窟の中には雨のように降り注ぐ焼夷弾の写真等の展示の他、司令室、救護室など細かく別れている部屋(洞穴)も観ることができ、これらを観ながらの洞窟内の冷えた空気は一層心に沁みます。
また、海軍壕の山の中腹付近に公園があり、長い滑り台があります(ウォータースライダーのような)。
大人の私も滑ってみたくなり、やってみました。
ちょっとしたジェットコースターのようなスリルがあります。
昼間は暑いので誰もいません。大人で滑ってみたい方は昼間がお勧めです。
恐怖感から手すりをつかまらないようにしてください。手のひらをヤケドします。

『平和の礎』
ここはかなり有名ですので、細かい説明は不要ですね。
沖縄県糸満市の平和記念公園内にあります。
礎に刻まれる戦没者名は毎年増え、戦争による島民の犠牲者は発表よりも多く、実際は15万とも16万とも言われています。


人、動物、戦争により犠牲となりました多くの命に心の底からご冥福をお祈りいたします
-合 掌ー

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